Aichi issue by Masaki FUJIHATA
-modified on 3 Oct. 2019-



あいちトリエンナーレ展示閉鎖問題関連


本年(2019)8月3日に閉鎖された、あいちトリエンナーレ内の一部の展示「表現の不自由展・その後」をめぐる展開があまりにも複雑なので、関連する論点をまとめてみることにしました。僕自身は初日に展示を観ましたが、10月3日現在、近く展示が再開されるようなので、展示の仕方やその作品内容についての議論は、多くの方が観られてからにしたいと思います。

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あいちトリエンナーレ一部展示閉鎖から補助金不交付までの7つの論点

1)「脅迫されない権利の侵害が起こった。」(木村草太さんの発言から@TBSラジオSession22、9月30日放送分

あいちトリエンナーレ事務局側及び愛知県は、脅迫によって展示を閉じざるおえなかった被害者である。この問題で、なぜ被害者が批難されなくてはならないのか、不自然である。この場合、補助金の支給者のひとつである文化庁は、被害者の側に回って支援するべきではないか?


2) 名古屋市長は、展示内容を批判し、被害の拡大を助長した。

自身がトリエンナーレ組織側(実行委員会会長代行)であるにも関わらず、トリエンナーレを混乱に導き入れた。権力側が展示作品内容を直接批判したことは、憲法21条「表現の自由は、これを保障する。検閲は、これをしてはならない。」に反している。


3)「表現の不自由展・その後」はどういう展示なのか。

「組織的検閲や忖度によって表現の機会を奪われてしまった作品を集め、・・・・当時いかにして「排除」されたのか、実際に展示不許可になった理由とともに展示した。」(表現の不自由展・その後のサイトから)この企画案から、どちらかというと資料的な展示として企画されていたと思われる。この文脈では、大村知事が「少女像は、実物ではなくパネルにならないのか」と津田大介芸術監督に打診したのも自然なことだったのではないか?(検証委員会の会議資料->中間報告書の11page

ちなみに、「表現の自由」は憲法で保証されているが、民主主義社会の源であり、また憲法の上に立つ概念として「人権」がある。人権とは「すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。」(世界人権宣言:外務省のページ)というもので、人間は一人では生きていけない。他者との関係において権力や暴力を振りかざす者があれば、自由に発言することは難しくなる。つまり、権力を持つ側には、不快である表現も許容する寛容さが求められる。

今回の展示「表現の不自由展・その後」は、行政側・市民・美術関係者の寛容さの閾値を測ることが目的だったのであるとすれば、皮肉だが、展示そのものの封鎖に続く今回の一連の騒動そのものが、その目的を達成しているようにみえる。


4)アート作品とは、個人の声が表現されたもののことである。

アート作品とは個人から発露したものであって、なんらかの政治目的のメッセージをアート作品と呼ぶことはできない。個人の発言や表現は、自身が気がつかない間にも政治的になることがあるが、それは政治活動ではない。「個人的な発露がある」だけでは、優れた作品とは呼び難い。優れた作品とは、それまで世界に存在しなかった何かを、その作家個人に根ざした方法で存在させているかにかかっている。そうした作品は、時として他者の共感を呼び起こすものであり、個人を越えた共有物となる。また、共感を前提に、共同作業によって完成されてゆく作品等が、ヨーゼフ・ボイスによって提案されたことで、現代的な意味がアートに加えられた。(ヨーゼフ・ボイス「社会彫刻」)


5)美術館は、政治からの自由が、政治によって保証されていなくてはならない。

個人という弱者の声を、他者という個人に聴かせる場所が、美術館という展示の場所である。こうした場所に政治を持ち込むことは、弱者である個人を危険に晒すことになる。あいちトリエンナーレの出品作家の何人かが、展示を閉じた理由はここにある。大きな予算をかけて開催される展示において、キュレータの役割はできる限り優れた作品を責任を持って集めるとともに、作品を脅迫から守るという責任を負うことである。


6)補助金不交付決定は、政府による脅迫者側の論理の容認である。

文化庁ページ「あいちトリエンナーレに対する補助金の取扱いについて」によれば、「愛知県は,展覧会の開催に当たり,来場者を含め展示会場の安全や事業の円滑な運営を脅かすような重大な事実を認識していたにもかかわらず,それらの事実を申告することなく採択の決定通知を受領した・・・[1]実現可能な内容になっているか,[2]事業の継続が見込まれるか,の2点において,文化庁として適正な審査を行うことができませんでした。」という手続き上の不備によって不交付とした趣旨が述べられている。

「脅迫されたことで予定どおりの展示ができなかった」ことを、手続き上の不備であるとする政府側の視点は、脅迫者側に寄り添っており、今後どんな形であれ脅迫に負ければ補助金が降りないことを示唆した発言だ。これでは脅迫されないような萎縮した芸術文化ばかりが花咲くことになる。


7)9月26日以降、この案件は政治化した。

10月1日、文化庁側に補助金不交付通知の作成についての議事録が存在しないことが判明した。(朝日デジタル)これはこの案件が、森友学園や加計学園問題に連なる省庁をまたがるパワーゲームに発展したことを意味する。いったい誰が不交付を決めたのかをめぐって与野党の戦いが展開されるであろう。

あいちトリエンナーレへの補助金は、「日本博を契機とする文化資源コンテンツ創成事業(文化庁文化資源活用推進事業)」という枠組みの中にあるものだが、この事業そのものにも問題があるように見える。今後ここにも批判が飛び火するのではないだろうか?と深く危惧する。

日本博のページを見ると、「『日本人と自然』-縄文時代から現代まで続く『日本の美』-」がメイン・テーマであるが、これは実に内向きの称賛にしかなっていないのではないか?外からやって来る人たち(特に東アジアの国々から来る人たち)に対して、日本の美を押し付けてはいないか?日本画と呼ばれる美術の一分野の源泉は中国であり、われわれの美術はその意味で中国からの影響下にあることは明らかである。こうした点についての配慮がなされているのかが気になるところである。
(ちなみに早くも、あいちトリエンナーレのページは、日本博の公式ページから削除されている。)

3rd of Oct. 2019
Masaki Fujihata